アルジャーノンに花束を


そして,わたしは,どうしようもなく手がつけられなくなるまですすみ,
大きくつまずき,会社を休職した挙げ句,閉鎖病棟に入院するに至った.


そこで,私の思考はこれ以上なく クリアで先鋭になった.
多くのことに,気がついた.
そのほとんどは,この日記に書いてきた.


書くことで,より一層,思考が整理され,視界がクリアになり
頭の回転速度が上がっていった.


そして至った結論は,

今までの私として,今までと同じものを求めることは不可能


求めるものを変えるか,自分を変えるか,
どちらかを変えなければ,私(望む世界)は,成立しない.


自分が,Dead end(袋小路)に居ることは,もうわかってるんです.


母には,そう伝えた.
事実そうなのだ.
もうそのことは,わかっているが,次の一手を打てないで居る.


次の一手は,容易ではない.
自分自身を変えるか,自分の欲するものを変えるか.




入院しているという事実は重く,目を背けようがなかった.
突きつけられた事実に,私は目を背けることなく向き合えた.
あの入院は,価値があった.ただし,常人にはお勧めしない.
でも,安易に新新興宗教に手を出すよりは,やすくて安全.
(今日,カードの引き落とし警告がきた.約9万円/16days)



Flowers for Algernon


アルジャーノンに花束を”では,
主人公のチャーリーは,脳外科手術によって,特異な思考能力を持つようになり,
自身のこれまでを理解する一方で,感情と知性とのバランスで苦しむ.
さらに,自身と同じ手術を先に受けたアルジャーノンの異変により,
手術自体の欠陥を自ら発見し,その対処方法を研究する.
知的能力を失い,退行することを,食い止めることが出来ないという,結論に至る.
(私は,映画を,そう解釈した“『まごころを君に』(原題"Charly")、アメリカ、1968年”)


私を,チャーリーと重ねるのは,あまりにチャーリーに失礼だ.
ただ,他人にこの心境を説明しようと思ったときに,ふと浮かんで,
ほかに比べて,適切だと感じた.


そして,チャーリーと私との違いは,大きい.私は,大きく恵まれている.

  • チャーリー:不可逆な脳外科手術を受けており,天才となった自身も認めるように退行を防ぐことが出来ない
  • 私:人格に起因するもの,人格,もしくは,求めるものを変えることが出来るのであれば,この先へも,進むことが出来るかもしれない


この先,私がどうなるかは,相当希少な,この日記の読者と,関係者が
自身の目で観ることが出来るでしょう.
一つの,娯楽的観察対象としても,今後もごひいきに.